明治19年(1886年)〜明治44年(1911年)。宇土郡松合村合村(現在不知火町)の医師御船秀益の次女として生まれる。17歳のときに姉マルの夫・清原武雄に透視術を習い、千里眼として今村博士と福来博士による12回の実験と2回の通信実験に合格し、一世を風靡する。海岸に落ちているダイヤの指輪を見つけたり、炭鉱の鉱脈を当てたり、難病の治療をしたという。「千里眼」という言葉を聞かれたことがあるだろう。千里先を見通すことではなく、壺や缶の中に入っている物や字を見通すのだ。今で言うテレパシー超感覚、念力だ。その千里眼の持ち主が明治末、熊本にいた。
当時は大評判で、とうとう東京大学、京都大学の学者がその秘密解明に乗り出し、新聞雑誌も大騒ぎして、一躍千里眼は日本中の話題になった。なにしろ、東京では医学、文学、理学など13人の博士がその千里眼の実験結果を承認し、京阪神では詰め掛けた群集から身を守るために、臨時電車まで出た騒ぎとなった。
千鶴子は明治19年7月17日、松合で漢方医を営む父秀益、母ユキの二女として生まれた。陸軍中尉に嫁したことがわかっているが、戸籍には載っていない。事情があって不縁となり実家に帰った。千鶴子は姉マルの夫の指導で、透視能力を学んだという。千里眼の一例として、ある婦人が松合沖で海水浴中、指輪のダイヤを海中に落とした。数十人が出てさがしたがわからない。この時、千鶴子が透視して、どこそこの岩の下にあると言ったら、その通りあった。この話を聞いた三井合名(三井財閥本社)が千鶴子を大牟田に連れて行き、当時わずかしか出てなかった石炭を透視させたところ「もう少し南に真黒の大きな塊りが見える。なんだかわからない」と言ったので、掘ってみたら優秀な石炭層にぶち当たった、これが万田抗の起こりである。お礼として二万円(今なら二千万円以上)をもらった。
明治4年1月18日、透視力の衰えから悩み、自ら命を絶った。
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