霊巌洞 (ぐるっと金峰の見どころ)
今でも世界中の武道家やビジネスマンの道しるべとなっている「五輪書」
宮本武蔵が晩年「五輪書」
を書き上げた場所は、熊本市河内町でした。
◆宮本武蔵の像と記念碑 霊巌洞の入り口には、武蔵修練の地の記念碑と宮本武蔵の像があります。 |
◆刻み込まれた「霊」「巌」「洞」の文字 雲巌寺の開祖・東陵永與によって岩肌に刻まれた「霊巌洞」の文字 |
宮本武蔵が過ごした熊本
細川忠利公の配慮のおかげで、宮本武蔵が生涯の中で経済的にも精神的にも一番安定した地は「熊本」であったと言われています。
寛永17年(1640年) | 熊本城主「細川忠利」に客分として招かれ熊本に移る。 これまで一定の場所にとどまることがなかった武蔵に、細川忠利は千葉城の屋敷を与える。 武蔵は忠利公の配慮に心底感謝し、忠利公に忠誠を尽くす。 |
寛永18年(1641年) | 細川忠利が亡くなり、武蔵も大きな悲しみを受ける。 |
寛永20年(1643年) | 忠利の3回忌を迎えこの夜から金峰山にある岩戸の霊巌洞にこもり「五輪書」を執筆し始める。 2年かかって書き上げた五輪書は、高弟の「寺尾勝信」に渡される。 病にかかった宮本武蔵は霊厳洞に籠もり臨終を待ったが、忠利公の実弟である「長岡寄之」により千葉城の自宅に連れ帰られる。 |
正保2年5月19日 (1645年) | 62歳でこの世を去る。 細川藩主を守りたいという武蔵の遺言により、死後は参勤交代の行列を見送る大津街道添いに埋葬してもらう。 |
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