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  • 熊本市河内町船津2104-4
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  • kawati@lime.ocn.ne.jp

当ホームページについて

  • このホームページは「ぐるっと金峰」広域観光推進委員会により運営しております。多くの方に金峰山周辺へお越しいただけますようパンフレットを作っております。
    パンフレットは、委員会の各商工会で配布しております。また、当ホームページでも閲覧&印刷できますので、ご活用下さい。

霊巌洞 (ぐるっと金峰の見どころ)

今でも世界中の武道家やビジネスマンの道しるべとなっている「五輪書」
宮本武蔵が晩年「五輪書」 を書き上げた場所は、熊本市河内町でした。

春

◆宮本武蔵の像と記念碑

霊巌洞の入り口には、武蔵修練の地の記念碑と宮本武蔵の像があります。

夏

◆刻み込まれた「霊」「巌」「洞」の文字

雲巌寺の開祖・東陵永與によって岩肌に刻まれた「霊巌洞」の文字

 

宮本武蔵が過ごした熊本

細川忠利公の配慮のおかげで、宮本武蔵が生涯の中で経済的にも精神的にも一番安定した地は「熊本」であったと言われています。

寛永17年(1640年) 熊本城主「細川忠利」に客分として招かれ熊本に移る。
これまで一定の場所にとどまることがなかった武蔵に、細川忠利は千葉城の屋敷を与える。
武蔵は忠利公の配慮に心底感謝し、忠利公に忠誠を尽くす。
寛永18年(1641年) 細川忠利が亡くなり、武蔵も大きな悲しみを受ける。
寛永20年(1643年) 忠利の3回忌を迎えこの夜から金峰山にある岩戸の霊巌洞にこもり「五輪書」を執筆し始める。
2年かかって書き上げた五輪書は、高弟の「寺尾勝信」に渡される。
病にかかった宮本武蔵は霊厳洞に籠もり臨終を待ったが、忠利公の実弟である「長岡寄之」により千葉城の自宅に連れ帰られる。
正保2年5月19日 (1645年) 62歳でこの世を去る。
細川藩主を守りたいという武蔵の遺言により、死後は参勤交代の行列を見送る大津街道添いに埋葬してもらう。

 


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